宮崎県北がん患者交流会
寄稿
皆さんこんにちは。
副会長の甲斐英貴です。
『ゆめの木』ホームページ立ち上げ、誠におめでとうございます。
がん患者交流会・・・と聞きましたらがんに罹患していない人からすると少し気持ちは重くなるかもしれませんね。しかし、不運にもがんに罹った人にとっては嵐の中で真っ暗な荒れ海に翻弄されながら漂っている最中に見えてきた灯台の光、かもしれません。
私は2016年3月に1番目の病院で肝細胞がんを宣告され、4番目の病院でもはや手遅れで治療をしても余命1年と告げられました。しかし、運良く5番目の病院で手術出来る事になり、難しい手術でしたが何とか生き残れる方向に進めるという良い波(運)に乗れました。今年5月で術後4年を迎えます。
5番目の病院と書きましたが、要するに『がん難民化』していた訳ですね。4番目の病院までは文字通り漂流していたのです。何故5番目の病院に辿りつけたのか、自分でも分かりません。ただ【運】が良かったとしか言い様がないのです。
しかし、敢えて生き残れた理由を考えてみるならば、最終宣告なので慌てる暇も焦る暇も無かった、のかもしれません。諦めていたのか、と考えてみると63歳だったし、正直言って諦めていた部分もあった、と思います。
強いて他の要素を挙げると、最初の病院で宣告された帰り、家族に報告する前にインターネットに詳しい同級生に相談して、肝細胞がん治療や病院を色々と調べて貰ったという事がありましたし、その前年に知人ががんに罹り、色々調べてセカンドオピニオンを取って東京のがん専門病院に行き、無事手術成功したことを聞いていたという事実があったということでしょうか。
後々に整理すると、自分の置かれた状況を慌てず分析して情報を有効に使った、ということでしょうか。
もう一つ、病室でのコミュニケーションがありました。余命1年宣告された4番目の病院では入院中は絶望感が勝り同室の人とは一言も会話せず、塞ぎ込んでいましたが、5番目の病院では入院から退院迄の35日間は積極的に会話し、お一人の方とは今でも会っています。
もし暗い気持ちであるのなら、同じ病いの持ち主であるかどうかに関係なく、とにかく話して・・・気持ちを言葉として体外に出すことが、気持ちの変化をもたらすのではないか、と今は強く思っています
そういう場として、延岡がん患者交流会は非常に有用だと思っています。